8月29日から9月1日まで、南山大学で5th Annual Conference of the European Network of Japanese Philosophy(ENOJP 5)*1が開催されました。1日目には、氣多雅子氏(京都大学名誉教授)が「哲学と生死の問題:日本哲学の意義と可能性をめぐって」というテーマで基調講演を行いました。

氣多氏は主著『宗教経験の哲学』を刊行された1992年当時から、思索の独自性の点で際立っていました。この独自性は何かを考えるとき、一つには、特に論考の中での、例えば「宗教経験の現象学的解明ではこの視座はどのような足場に基づいて開かれうるであろうか」*2と言われるときの、「視座」や「足場」に対する姿勢をあげることができると思います。
今回の基調講演は、この独自性について考えるのにとても示唆に富むものでした。
氣多氏は講演の初めのほうで次のように述べています。
「『善の研究』の論考はかなり素朴なところがありますが、それが当時の最先端の思想とわたり合うような高度な論考へと進んでいくことができたのは、西田が常に哲学の基本をおさえていたからだと思います。私の理解では、その基本というのは、どこに出立点を置くかというところから考えて、それを反省し続けるという点です。」*3
氣多氏が2018年まで所属していた京都大学宗教学講座は、ご存知の通り、西田幾多郎、西谷啓治が歴任してきた講座であり、まさに氣多氏こそ、彼らの思想を受け継いでいる哲学者であることは異存のないところだと思います。
しかも、氣多氏が引き継いで発展させているのは、本講演でもふれられていたように「西田が論じたような絶対無を彼方に見やる自覚の道は、もはや空洞化したと言わざるを得ません」*4と言われるような事態を自覚したうえでの、思索の営みです。
思えばこのような事態の自覚は『宗教経験の哲学』の頃からなされていて、次のように述べられています。
「宗教的真理が捉えられないことの自覚が宗教哲学の見る営みの始まりなのである。そこで見られるものは所謂宗教的真理そのものではなく、それ自身を覆い隠すところの或いはそれ自身を顕わし出すところの宗教の出来事であって、しかも宗教哲学の見る働き自身がその出来事に参加しているのである。」*5
このような「足場に基づいて」思索する氣多氏は、西田、西谷を引き継ぎつつも彼らとは一線を画する精神的境位に至っていると言えると思います。そして今回の講演で、何よりも驚いたのは、氣多氏もまた「哲学の基本」をおさえて、そこまで至ったのだということです。目の前で氣多氏の口から聞かなければ、盲点となって気づくことはできなかったような気がします。
「しかし、その空洞化そのものが、私たちは何を失ったのか、いま何が起こっているのかを私たちに指し示しているはずです。その空洞を真理が満たすことができないとするならば、その空洞に現代世界における私たちの生死の在りようをどこまで徹底して映し出させることができるか、それが日本で私たちがなし得る哲学の挑戦ではないでしょうか。」*6
本講演はこのように締めくくられました。
果たして氣多氏のほかに、この空洞に生死の在りようを「徹底して映し出させることができる」人物が出てくるのでしょうか。出てくるとすれば、氣多氏のいう意味での「哲学の基本」を、その人なりのやり方で徹底的におさえることができる人でしょう。
ENOJP 5に参加された国内外の日本哲学の研究者の方々が本講演を聞いてどんな応答をされるのでしょうか。
今後が楽しみです。
文責:髙村京夏

*1 https://enojp.org/ 参照。
*2 氣多雅子『宗教経験の哲学―浄土教世界の解明』創文社、1992年、24頁。
*3 ENOJP 5 気多雅子基調講演配布資料、2019年8月29日、3-4頁。
*4 同上、15頁。
*5 氣多雅子『宗教経験の哲学―浄土教世界の解明』創文社、1992年、16頁。
*6 ENOJP 5 気多雅子基調講演配布資料、2019年8月29日、15頁。
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