小沢健二の新曲、『エル・フエゴ(ザ・炎)』(以下、「(ザ・炎」の部分は略す)を聴いていると、いまこの曲を耳にしているこの瞬間から、自分の覚えていない過去のことや、もう自分が存在しない時の方へと意識が誘い出されてしまう。そしてそれらの時が、いまこの瞬間と別の時点ではなく、重なり合う瞬間であり、過去の自分やもはや存在しないはずの自分が、いま存在しているこの自分でもある、という認識へと導かれる。
こんなふうに言葉にすると、矛盾した、意味ありげに見えて実は無意味なことを語っているように思えてしまう。しかし自分にとってこの認識はとてもリアルなものであって、到底無意味だとは言えないような内実を持っている。
また、この認識は曲に対する主観的印象であるわけではなく、同じ曲を聴く様々な人に共有可能なものであり、作品自体に一定の根拠を持っている、と思う。こうしたことについて、いま考えていることを書いてみたい。(とはいえ、以下は畢竟、私の心の動きの分節化に過ぎず、「聴き手」は私のことを指している。)
これまでの小沢の作品(たとえば『ぼくらが旅に出る理由』など)と同様に、『エル・フエゴ』の歌詞も多義性を持つように書かれており、それを効果的に使うことで、言葉になりにくい洞察を伝えている。この曲の場合、多義性は「誰が・誰に向けて言葉を発しているのか」に関わるものである。
歌詞の第一連の冒頭、「理科室の戦士なんだよ エル・フエゴっていうんだよ」と言っているのは誰だろうか。可能性としては、大人が子供にあるキャラクターを紹介して語っているように受け取ることもできる。しかし、「理科室」で骨格標本に実際に出会っている子供が、想像したキャラクターについて大人に対して語っているものとしても受け取ることができる。(「骨だけの体で打ち破る」から「憎しみの数々を」は、その語り口からして大人の認識を示しているけれど、それは子供の語った内容を大人がこのように受容した、ということを示しているのだと思われる。)
どちらの受け取り方が自然なのかはわからない。前者もまた可能であるが、私は直感的には後者の受け取り方をした。(ここで、すでに言葉を発する主体について解釈の揺れ、多義性があらわれている。)
次に、一度目のサビを挟んで第二連、「君の肩、君の頬に戦士は宿ってるんだよ」は誰が語った言葉で、ここで語りかけられている「君」とは誰だろうか。私は直感的には、これは大人が子供に対して発した言葉のように受け取った。冒頭の部分を子供が発した言葉として解釈するとすれば、子供の話したことを受け取った大人が、そう語った子供の細い方や柔らかな頬の向こうに骨を透かし見ている場面のように思える。そしてこのように解釈すると、詞の第一連から第二連に進行することを通じて、語る主体の位置、視点が入れ替わっていることになる。しかしこれは詩に「僕」と「君」が明確に使い分けられることでなされた視点の移動ではなく、語られている内容に導かれて、聴き手自身の中で生じたものである。この運動の自然さ、自発性が、聴き手の意識や感情の振幅を大きくする働きを持つように思う。
(第一連から第二連にかけて、一貫して大人から子供に語りかけているものとして受け取ることもできるけれど、そしてそれはかなりすっきりしたストーリーになるけれど、私は揺れを感じる方が気持ちがいい。)
(またこの言葉の語り手を子供として、「君」が指しているのはエル・フエゴであると受け取ることも可能性としてなくはない。この作品の第三連以降の「君」をここでの「君」に反映させるならば、そう解釈する余地があり、そしてそれがこの作品の奥行きを広げていると思う。そう思う理由は、以下の論述で示される。)
また、「戦士は宿ってるんだよ」と言うことで、この語り手である大人が、子供が子供であることの中に倫理性を見ていることが示されている。子供が語るヒーロー、戦士は正義の味方である。正義とは何かと悩むヒーローもいるけれど、子供向けのお話しの中では、ヒーローの行動は最終的には正しい。そして子供はこのくもりなき正しさを率直に受け取る。
大人になれば、「正しさ」「正義」がそう明確なものではないと悟らざるを得ない。ときには、ある意味で「悪い」ことでもあると思いつつ、あることをなさざるを得なかったりする。しかし、だからと言って「正しさ」や「正義」の観念を捨ててシニカルに生きられるわけではない。いや、じっさいにそういう下らない大人(そういう幼稚な人間を大人とは呼びたくないけれど)はいるわけだが、少なくともこの言葉の語り手である大人はそうではない。日々の生活にくたびれ、苦い思いを何度もしつつも、それでも「これが現実さ」と居直ることなく「正しさ」も大事だと思っていて、その結晶を子供の中に見ている瞬間を歌っているように思われる。
その後、「骨の中に時は降りつもる」から「思い出も 思い出せないことも」になると、語り手は大人のままであるが、意識が目の前の子供から自分自身へと向かっている。視点は変わっていないが、視線の向きが反転している。自分の体の中の奥深く、自分の意識がもはや届かない深部にある(そしてこういう空間的遠さだけでなく、「思い出せない」過去という時間的遠さでもある)、子供であった自分、その自分が体現していた正しさを信じる生き方へと意識が向いている。
この視線の反転もまた、「思い出」・「思い出せないことも」という言葉に導かれた自然な反転で、この揺れ動きが、聞き手の想像力の自由度を増していく力になっている。
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