小沢健二『エル・フエゴ(ザ・炎)』について③


  そしてこの自覚を手にしたまま、サビを経ずに連続的に第四連に入ると、「やがてくる旅立ちの日 どんな空の色かな」と歌われる。この語り手は一方で子供であるため、たとえばこの「旅立ち」を「卒業」として受け取ることができる。初めてこの曲を聴いたとき、私は校庭の鉄棒越しに見える深い青い空をイメージし、卒業を連想したが、これなどは、冒頭の「理科室」と呼応して喚起されたものだろう。

 しかしもちろん「旅立ち」をそのように限定的に捉えなければならないわけではなく、子供であることを脱して大人になること、そうして社会の中で自分の力で生き抜いてきいくこと(生き抜いていかなければならなくなること)として、より広く受け止めることができる。そしてそう受け止めることで、「君の声を聞かせて欲しいんだ 抱えてくから どんな暗闇も 超えてゆけるから」が、子供から大人になることで出会う、「悪しき心」や「おそるべき憎しみ」と戦っていくときに、そのときにはおそらく聞こえにくくなっているその声で励まして欲しい、という願いとして理解できるようになる。

 ただし、このように理解するときにも、子供の気持ちは決して不安に塗り込められているのではないはずだ。というのも、「どんな空の色かな」と考えてもいるからである。どこかしら、のんきな気分がある。また、視線が遠くまで届くことのない「暗闇」だけでなく、視線がどこまでも伸びていくことができる「空」が共に歌われることで、いまだ先は知らないけれども、そこには希望もあることが確保されているように聴こえる。

 

 以上は、語り手を子供としたときの受け取り方である。しかし、もはやいうまでもないことであるが、語り手は単なる子供ではなく、子供である大人である。自分の子を持ち、それなりの年齢になった大人が、生きていく中で出会う暗闇と戦い、乗り越えていくときに、自分の中にいる、かつて子供であった自分や、今自分の目の前にいる子供である子供から力をもらいたいと願うこととして受け取ることができる。そしてもっとも強大な暗闇である死が、「旅立ち」として表現されていると解釈することができる(「旅」という日本語の言葉の意味からしても自然にそう解されるが、『ぼくらが旅に出る理由』や『旅人たち』といった作品を聴いてきた者にはほとんど必然ともいえる解釈であろう)。

 

 僕は大人になった。それどころか「初老」とすら言える年になった。親を見送ったり、友人を失ったりして、否応がなく自分の死を考えざるを得ない。いますぐというわけではないと思いたいが、いつ来るかもわからない。怖くないわけがない。だからといって、逃げることもできない。横を見る。子供がこちらを見上げている。絶対に勝つことはできない戦いだが、負けるわけにもいかない。そしてこの子がやがて大人になり、絶望することなく生きているのなら、僕の死は勝利ではないにせよ、決して敗北ではない。そう思える。この子がいるのなら、君が生きて、思いをつないでくれるのなら。

 「君の声を聞かせてほしいんだ」の「君」を、自分の子供であるとして、このように理解することもできる。しかし同時に、やはりこの「君」は、大人の中に宿る子供、自分か子供時代に出会った戦士エル・フエゴでもあるだろう。自分は死に負けるわけにはいかない、負けないでいることもできる、そう思うとき、その思いにじつは根拠はない。負けないという見込みが立つわけではない。しかし根拠なくそう思い、戦うことを決断するとき、その決断を促す声は、確かに自分の中から響いてくるのだ。人がそのような勇気をいつ手にするか。それは子供の時だ。幼き日、くもりなき正しさ、全き正義を直視しその存在を信じられる経験をした。そうした経験の具体的な相はもはや自分の意識では届かない彼方にあるが、しかしそれは自分の体の奥深くに炎として燃えており、それが僕に一歩を踏み出させる。この「声」は、そうした内なる声でもあるだろう。

 

 このように「旅」は死でもあるが、しかし子供が不安と期待を胸に世界の中へと踏み出すことでもある。この二つの旅が重なることで、やがで自分が出発する死という旅の中にも、ほのかな希望が宿る。一瞬、死は暗闇のようにも思える。そうでないという根拠はない。だれも死という旅から帰ってきた人はいないのだから。大人が見ている世界の多くの相を、子供がまだ知らないように、大人は死を知らない。しかしその無知にも関わらず、子供はなぜかのんきに構えて、希望を抱いてもいる。そうした子供が、大人の中にもいる。大人はそうした子供でもある。それが僕にほのかな希望を抱かせる。だからこう思える。「越えてゆける、越えてゆくよ」、と。

 

 自分の聴取体験を解きほぐしていくと、時間の中での作品の進行、言葉の配置によって、受け取った印象が作品そのものによって必然的に導かれたように思える。しかしこの必然性は論証のような逆らい難い導出過程ではなく、自分の想像力の自由な羽ばたきとして展開されたものとして体験される。それが可能なのは、作品の言葉が、論証や正当化を目的とする理論の言葉ではなく、詩の言葉で、音楽という時間の中で展開される形式で示されているからである。

 この作品が注意深く作られたものであることは間違い無いが、隅々まで計算した結果などでは無いだろう。日本語、そして音楽という魔法を知り尽くした魔法使いが秘術を尽くした作品、と言いたくなる。ただ一つ困ったことがあるとすれば、こんな作品を聴かされてしまうと(しかも同様にすばらしい作品をいくつも聴かされてしまうと)、日本語詩を伴う他の音楽作品が物足りなくなってしまうことだろう。

 


2021・5・26 髙村夏輝(博論社・顧問)

 

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