6.再現③いちょう並木のユートピア
「いちょう並木のセレナーデ」は「So kakkoii 宇宙shows」以降は「アルペジオ」と組み合わせて演奏されるけれど、今回はもちろん単独。小沢+ヒックスヴィルで、小沢は基本アコースティック・ギターだけど、イントロと最後だけはエレキギターも弾く。どうするのかと思っていたら、エレキギターはスタンドに固定して、アコースティックギターを抱えたまま弾いていた。
小沢の中でも一、二を争う人気曲だけれど、私自身はじつはそれほど好きな作品ではなかった。私が小沢に何よりも求めるのは強大なエネルギーの炸裂なので、抑制的なこの作品は自分にとっての小沢の王道からは外れている。それが変わってきたのは「春空虹」からで、爆音での演奏が多い中、控えめな音量で奏でられたこの作品を聴いていて、舞台の方にすーっと引き寄せられるような感覚を覚えたときだ。
最近の小沢のライブで、絶頂に達していると個人的に感じるのは、「ある光」(特にファンク交響楽バージョン。録音とは作品の性格が反転している)が演奏されるとき、「強い気持ち・強い愛」を会場のみんなで歌うとき、そして「いちょう並木のセレナーデ」を会場のみんなで歌うとき、この三つだ。「ある光」は目を開けていられないほどのまばゆい光の体験、「強気強愛」は会場全体が燃え上がり一体化する経験が素晴らしい。しかし「いちょう並木」をみんなで歌うことは他に代えがたい、小沢のライブでしか可能にならない奇跡的な瞬間だと思う。
「いちょう並木」、とくに「やがて僕らが過ごした時間や 呼びかわしあった名前など いつか遠くへ飛び去る 星屑の中のランデブー」からサビにかけてを歌うとき、「強気強愛」と同じく恐ろしいほどの一体感を感じるのだけど、しかしその一体感の質はずいぶん違う。「強気強愛」の場合はみんなで火だるまになって自他の境界線が消されてしまうような一体感であるのに対し、「いちょう並木」の一体感は深い淋しさを伴う。自分の、そして他の人一人ひとりの固有性を保ち孤絶性を深めながら、それでも同じ運命に晒されている人間としての共感で強く結ばれて成立する一体感。歌いながら、しみじみと「ああ、自分も、この会場にいる誰もが、それほど遠くない将来死んでしまう。そしてぼくたちの名前や行いを記憶しているひとも、やがて全員死ぬ。人類も絶滅し、地球すらそのうちかならず膨張する太陽にのみ込まれてしまう(太陽が次第に近づいてきてる)。みんながいたことはその痕跡すら残さず消えてしまい、残るのはこの体の原子レベルの構成要素ぐらいのものだろう。やがてそれらが宇宙空間の中でひかれあい、新しい星が生まれる同じプロセスの中で出会うこともあるのかもしれない。それこそ星屑の中のランデブーだ」などと考えてしまう。
私には「いちょう並木」のこの部分は、そのような死よりも深い存在の抹消(「流れ星ビバップ」ではそれを「やさしさ」と表現している)を歌っているように思える。そして多くの人が、明示的に意識するかしないかはさておき、この曲を聴いて感動するときこういう直観をしているのではないかと思う。そして、この不条理な運命に一人で向かい合わなければならないことにおいて、私たちはみな等しい。死においては誰もが一人で死ななければならなず、それを思うとき私たちは否応がなく孤独へと立ち戻らされるのだが、その孤独が深ければ深いほど私たちは他者との間に引力を感じてしまう。そのため、「いちょう並木」をみんなで歌うとき、このように個と全体(普遍)という本来矛盾するものが統一される経験をするのではないだろうか。以前から小沢のライブは「宗教的」であると言われることがあるが、この経験の瞬間は本当に神秘的で、何も信仰を持っていない私だが、揶揄の意味なく「宗教的」と評したくなる。
この経験は、個と全体(普遍)との統一だけでなく、自由と規範・規律という矛盾が統一される経験でもある。少し前、星野源の発言をきっかけにして、客がそろった振り付けをするべきか、それとも自由に踊るほうがいいのかがちょっとした議論になった。みんなで同じことをすることは団結感を感じられる素晴らしい体験なのかもしれないが、しかしみんなが同じ動きをしているのは不気味だし、そんな動きを強制されなくてもよいではないか。一方、音楽なんて好きに聴いて楽しめばよいのだから、自由に踊ればいいというのももっともだが、しかし知らない者同士が共有された場で気持ちを通い合わせてしまえることの尊さってのもあるだろう。どっちの言うことももっともなところがあるのだが、自由と(規範に従うことで成立する)一致・団結を対立させて考えるのは、音楽のライブ体験が持つ力を十全に評価できていないのではないか。素晴らしいライブは、自由と規範の対立が止揚される稀有な瞬間を実現させるからだ。
既に存在している歌を歌詞通りに歌うとき、そして小沢が「もっと!」と言いながら会場を満たす歌声を左手で掬いあげるように動かすのに合わせてより気持ちを込めて歌うとき、私たちは自分の外にある基準に従うようにふるまっていると、言おうとすれば言えなくもない。そうであるからこそ、本来別々の存在である私たちのふるまいが一致するのだから。しかしそのように歌うとき、私たちはこの上ない自由を経験してもいる。自分の中にある、熱く煮えたぎるような気持ちを外へと吐き出す解放感がある。あらかじめ存在している歌詞やメロディーは、私たちのふるまいを制約するもの、私たちを縛るものではない。むしろ私たちのなかの無定形な力に形を与えてくれるもの、その力をしかるべきところへと導くものだと感じられる。みんなで歌うとき、私たちは個々別々であると同時に一致した一つの全体であり、自由であると同時に規律に従っている。そのとき、私たちはユートピアにいる。
個と全体、自由と規範の対立の超克を手垢のついた言葉で言うなら、「近代人の疎外の克服」という思想的課題だと言ってよい。これは、たとえばドイツや日本ではロマン主義者たちの主たる課題となったが、小沢も出自からして意識せざるをえない話題だろうと思う。しかしその課題を社会的に実際に果たそうとすることで、逆に多くの悲惨な出来事が起きたのは周知の事実である。美的次元で達成される克服の経験を、実際に社会化しようとすると、個と全体の対立の超克ではなく、単なる全体による個の抑圧になってしまう。ドイツにおいても日本においても、政治の美学化は全体主義を支える大きな要因だった。しかしそれでも現代を生きる個人として、疎外されているのはつらい、それは乗り越えたい。私たちが疎外の克服という課題を捨てることなどできない。だから、私たちには、克服が可能なのだという希望を必要とする。ライブの空間に束の間現出するユートピア中で生きることで、私たちは確かに希望を得る。しかし、それはきわめて限定された時間、空間の中だけのことだ。私たちが現に生きる社会そのものを、ストレートにユートピア化しようとしてはならない。私たちはやはり異なる個人であり、異なる問題と利害を抱える存在だからだ。私は私の、あなたはあなたの生を生き、戦うしかない。だからこそ、小沢健二はいつもライブの最後に「生活に帰ろう」と言うのだと思う。(ちなみに録音された作品で言うと、「高い塔」がこのテーマと密接にかかわっていると思う。保田與重郎のような人の轍を踏むことなく、ナショナルなもの一体化する力を解き放ち、美的な次元で疎外を克服する試み。)
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